警告:本作において登場人物が行うような殺虫剤および電化製品の使用法は、けっして行わないでください。模倣して事故が起こった場合でも、作者はいっさいの責任を負いません。
警告の注釈:わざわざこういう事を言わなければならないこのご時世というのはいかがなものかと思わなくもありませんが、ちゃんとお読みください。
「んぁ……かゆ……?」
理子が目を覚ましたとき、目覚まし時計は1時を指していた。
ついさっきまで、ルームメイトの綾と、くだらなすぎて面白いB級ホラーのDVDを見ていて、馬鹿笑いするのも疲れたから、そろそろ寝ようということになって……
無意識のうちに、お尻を掻いていた。
嫁入り前の娘としては、あまり色気のないポーズである。
半分お尻を出していたわけだから、色気があるのか。
ともかく、恋人には見せられない姿である。百年の恋も冷めそうだ。いや、恋人いないけど。
「……蚊?」
かゆい所は、蚊に刺されたとき特有のかぶれを起こしていた。
「なんでお尻刺されるわけ……?」
謎である。
理子の寝間着は、シャネルの5番ではない。幼い容姿にあわせた、可愛いデザインのパジャマである。本当はもう少しシックなデザインが好みなのだが、ルームメイトが誕生日のプレゼントにくれたもので、着ないわけにもいかないのである。
そんなパジャマをちゃんと着ているのに、お尻を蚊に刺された。
いったいこれは、どうしたことか。
「うーん……」
半分寝ぼけた頭で、考えてみる。
「いち、自分で脱いじゃった」
暑くて脱いでしまうことはあるかもしれない。でも、エアコンガンガンに効かせているのである。脱いだりはしないだろう。他の理由で脱ぐこともあり得るが……いや、あたし、そんなに欲求不満じゃないもんっ。
「に、誰かに脱がされた」
じゃあ、誰だ。この部屋には、ルームメイトの綾しかいないのだ。
セキュリティのやたらとしっかりした、女性用のマンションの7階。進入は困難。
「……」
二段ベッドの上の段で眠っているだろう、綾。
パジャマも男物だし、さらし巻いたりするし、おやじギャグ好きだし。
まさかとは思っていたが、まさかまさか。
「綾……言ってくれれば」
言ってくれればなんだというのか。
自分でも恐ろしい考えになってしまい、理子、それ以上自分が口走りそうになった事を、必死で頭から追い出す。
「と、とにかく……蚊がいるのね」
そう。
なぜお尻を刺されたのかは分からないが、とにかく、この部屋には蚊がいる。
それは間違いない。
とすれば、するべき事は、ただひとつ。
「殺虫剤、あったかなぁ……?」
きょろきょろと見渡すが、ヘアスプレーとかはいっぱいあるけれども、殺虫剤の類は見つからない。腰までの長い髪を両脇でくくって縦ロール、などというアニメか少女小説のキャラクターみたいなヘアスタイルの理子、ヘアスプレーはたくさん持っているのだが、殺虫剤は今年になって一度も買っていなかった。
なお、ヘアスプレーはその日の天気によって使い分けている。縦ロールのまとまり具合が、湿度によって変わってくるのだ。
「ええと……」
押入を探ってみる。
「去年買ったような気が……あ、あった♪」
そう。去年、確かに買った。あれは……そう、黒くて光って空も飛ぶ、女の子の大敵を殲滅するために。
「これで……ココをこうして……これでいいのかな」
効果は絶大。すばらしい効き目で、本当にびっくりした。
あの戦果を、今一度!
「これで、よし♪」
そして、理子は、その殺虫剤を、使用した。
商品名バルサン、を。
「げほーっ、げほげほっ!?」
「なんでそーいう事をするのかな、このおバカっ!?」
10分後。
部屋の外で理子は、ルームメイトに叱責されていた。
エアコンを使うために締め切った1LDKのマンションの一室で、商品名バルサンを使えば、人間だって、そりゃ危険である。
すっかり熟睡していたルームメイトの綾も、本能で生命の危機を感じ取り、あわてて飛び起きた。でもそのときにはすでに、部屋の中は殺虫剤の白煙で満たされていたのである。
張本人の理子は、至近距離で白煙を吸い込んでしまい、昏倒しかけていた。蚊よりも先にダウンしてしまっては、なんのための殺虫剤だか分からない。そこを、綾が抱えて部屋から飛び出したのである。
「まったく、なに考えてるのよ、理子ってば!?」
「ご、ごめんね、綾ちゃん……」
「ホントに、むちゃくちゃよ……」
「う、うん……でも……」
「デモもストライキもないっ」
「お姫様だっこ、そろそろやめて欲しいよ……はずかしい」
「っ!?」
飛び出した、そのままで、綾はお説教を始めていた。
つまり。
お姫様だっこ状態である。
身長があり、スポーツをやっているだけあって、綾はちょっと骨太で。そんな彼女がすこしロリ入ってる理子をだっこすると。
ここは宝塚か、ってな感じである。
あわてて綾は、理子をおろした。
隣近所の人々が出てきてなくてよかった。
ただでさえ見た目が『それっぽく』見えてしまう理子と綾だけに、いまのシーンは『誤解を招きかねない』。
「……いーや、あたしたちはそんな関係じゃない。まだそんな関係じゃないぞ……」
そうつぶやく、綾である。
「……『まだ』……?」
ケホケホ言いながらも、ツッコミを入れる理子。
「ち、ちがうっ! そんなことないっ! ぜったいないっ!」
全力で否定する綾。だが、はっきり聞こえたぞ『まだ』って。
決死の覚悟で部屋に再突入し、窓という窓を全開にし、換気扇をフル回転させると、10分後には、何とか部屋に入れるようになった。
「ふー……なんで夜中にこんな大騒ぎしなきゃならないのよ……」
「ホントごめんってば、綾ちゃん」
「……もー、さっさと寝よ。明日も仕事よ?」
「うん」
といった感じで、二人がそれぞれの布団に戻ると。
──……
「……?」
〜〜〜〜……
「……いる……」
「……いるね……」
そう、間違いない。蚊の羽音が聞こえる。
〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜
しかも、複数。
どうやらさっき窓を開け放ったときに、入ってきたらしい。
タオルケットに潜り込むが、羽音はまだ聞こえる。
「……」
「……」
これでは、気になって眠れない。
むくりと起きあがる、綾。
「──……」
精神を集中し、羽音の位置を探る。
「──……」
〜〜……
「……!」
声こそ出さないものの、裂帛の気合いとともに、羽音に向かって平手打ち。
手応え、あり。
手のひらを見ると、見事、蚊が一匹、つぶれていた。
ティッシュでぬぐって、耳を澄ます。
〜〜……
まだ一匹いる。
どうやらすぐ近くではないようだ。
綾は、さっきの成果に気をよくしたのか、二段ベッドの上段から降り、部屋の中心に位置した。
程なく、羽音の位置を探り当て、そっとそこに近づいていく。
身を乗り出し、目標を確認する。
なんと、友人の血を、いまにも吸い取ろうとしているではないか。
許すまじ。
あたしだって、まだなのに。
……って、なんで『まだ』なのっ!?
動揺する綾。
違う違う、あたしはそんなんじゃない、理子と同居してるのも、家賃を安く上げるためであって……
そんな心の迷いが、肝心なことを忘れさせてしまったのか。
綾は、目標に向かって、再び、思いっきり平手を放ってしまっていた。
理子のおでこの上の、蚊に向かって。
「痛い、痛いよほんとーにっ、綾ちゃんっ!?」
「ごめん、ホントーにごめん……」
理子の形のよいおでこには、真っ赤に手のひらの形が残っていた。
半泣き以上の表情で、理子は綾に抗議していた。
なお、蚊はまだ生存している。
「痛かったんだからねっ!?」
「ごめん……」
大きな体を小さくする綾。
「ひどいよ綾ちゃん」
「……ホントごめん……」
平謝りの綾。
綾も理子も、相手が怒ると、なぜかひたすらに平謝りになってしまう。
言い返すとか反論するということが、出来ないのだ。
他人に対しては、理論的に言い返せるのに、お互いが相手だと、なぜかこうなる。
これはよくない、非常によくないとわかっているのだが、二人とも、このことを直そうという気にはなれなかった。
それこそ、ヒジョーによくないような気がするのだけれども、だ。
〜〜〜〜〜〜……
そんな二人の耳に、再び、羽音。
「……いるね」
「……うん」
「コンビニで、殺虫剤買ってこようか?」
「蚊取り線香でもいいし」
外に出られるように着替えた二人、歩いて5分のところにある、コンビニに来ていた。
理子は薄い黄色のワンピース。綾はTシャツにジーンズ。
「ついでに、ビールかチューハイでも買おうか」
「いまから飲むの、綾ちゃん?」
「いまだから。もう3時になっちゃう。はやく寝ないと」
確かに、もうじき3時になろうとしていた。8時半には家を出ないと、仕事に間に合わない。
「帰って飲んで……あたしやめとく」
「あ、そう? じゃ、あたし自分の分だけ買お」
九州出身で一家全員大酒飲みの綾に対して、理子はコップ一杯のビールでもべろんべろんである。いまから飲んだら、よく眠れるかもしれないが、仕事は遅刻確定だ。
「ビールとおつまみと……あとは、殺虫剤」
「……殺虫剤、ないよ?」
「え?」
見ると、殺虫剤があったであろうところが、スッカラカンである。
店員に聞いてみると、どうやら売り切れらしい。
「どうしようか?」
「もう一つの方、いこうか?」
近くに、もう一つコンビニがあるのだ。そっちなら。
と思ってきてみたら。
「……12時までだっけ、ここって?」
「そう書いてあるよ、綾ちゃん?」
そういえば、このチェーンは24時間営業ではないのだった。
営業時間外なので、シャッターが閉まっている。
「うーん。仕方ないから……次いってみよーか?」
結局、ようやく蚊取り線香を見つけたのは、4つ目のコンビニであった。
「さいきん、蚊がふえてるのかな、綾ちゃん?」
「そんなに増えるもんなの、蚊って?」
ビールを飲みながら、綾、そう聞き返す。
「知らないよ、あたし」
こちらはサイダーを飲みながら、理子。
さすがに、のどが渇いた。
時計を見れば、もうじき4時。
一時間近く、歩き回ったことになる。
「さ、はやく帰ろ」
「うん、綾ちゃん」
「もうあたし、眠いよ」
「あたしもー」
そんな二人が帰ってきて。
蚊取り線香に火をつけようとしたら。
「なんでライター買ってこないのよ、綾ちゃんっ!?」
「理子も買わなかったじゃんっ!?」
どちらもたばこを吸わないので、ライターも持っていない。
「これじゃあ意味ないよー!」
「……電子レンジで、火つくかな?」
すこし酔ってる綾、変なことを言い出す。
「つくの?」
自分ではいっさい炊事が出来ない理子、電子レンジがどういうものか、ちゃんと理解していない。
「やってみよっか?」
そして、電子レンジのタイマーを1分にセット。
「1分でつくかなー?」
「やってみればいいじゃん」
ちーん♪
「つかないよー、綾ちゃん?」
「じゃあ、5分でやってみたら?」
ちーん♪
「つかないねー……」
「やっぱり」
「やっぱりって、わかっててやったの、綾ちゃん……?」
「そーだよー」
訝しく思った理子が床を見ると、空になったビールの缶が、増えている。
「綾ちゃん……飲み過ぎじゃ……?」
「だいじょぶだいじょぶ」
大抵の酒飲みがそういうように、明らかに大丈夫ではなさそうな量を飲んで、大丈夫という綾。
「あたし、お酒強いから」
「それは知ってるけどー……」
レンジでほどよく暖まった蚊取り線香を手に、あきれかえる理子。
「あーもー、どーやって火をつければいいのよー?」
ガスコンロを使えばいいと、理子が気づくのは、これから1時間もあとのこと。
酔っぱらってさっさと寝てしまった綾を傍らに、朝日の中、一筋の煙を立てる蚊取り線香を手にして、理子は呆然と立ちつくすのだったり。
〜〜〜〜〜〜……
「ウソっ、まだ飛んでるのっ!?」
おわり。